2023年11月13日月曜日

あついウィーン!

  コロナ禍の中、海外へでかけることもままらなかったが、この2月にハンブルクやベルリンへ、そして、8月から9月にかけてウイーンとチロルを訪問する機会をえた。8月のお盆過ぎに、まずウィーンに行く。夏にヨーロッパに行く楽しみの一つは、暑い日本から逃れられるということであった。今夏の猛暑から脱出できると、いざウィーンに乗り込んでみると、いやはや暑いこと、暑いこと、、、日本と同じような暑さである。ウィーン市当局が高温注意報を出していたほどである。

 ウィーンは、チェコのプラハよりも東にあり、実はヨーロッパでも内陸に位置する。大西洋から離れており、大陸的な気候を有し、それなりに夏は気温が上がり、冬は冷え込む。過去にウィーンを訪れた時にも、エアコンのないホテルで、窓を開け放していても暑くて寝つかれなことがあったし、エアコンがなく蒸し風呂のようになった路面電車を顔を真っ赤にした運転手が運転していたこともあった。むろん現在では、ホテルもエアコンがつくようになり(むろん、ないホテルも)、路面電車や地下鉄にもエアコンが装備されるようになった(ついていなかったり壊れているものも!)。ただ石畳の道の照り返しの強さは相変わらずで閉口する。

 今回はウィーン中央駅近くに宿をとった。ウィーンにもともと中央駅はなく、かつてのウイーン南駅が改修されて2014年に中央駅とされたものである。ヨーロッパの主要都市では、町の中心に鉄道が乗り入れず、都心の周辺に行きどまりのいわゆる頭端式の駅が設けられる場合が多い。ウィーンの場合、西の方からの路線の頭端式の終着駅がウィーン西駅、南方からの路線の終着駅がウィーン南駅であった。これらの駅は、ウィーンの外環状道路に面している。この外環状道路は、かつては、オスマントルコとの戦争に備えて設けられた第2防御壁の跡地である。ちなみに、内環状道路は旧市街のすぐ外側を走り、リングRingと呼ばれ、両側に王宮や美術史博物館、歌劇場が面している。このリングは、かつては、やはり防衛のために設けられていた幅450mの空き地、緩衝地帯であり、後の都市計画によって環状道路と施設が整備されたものである。ウィーンの街の拡大はまず、このリングとなった緩衝地帯と第2防御壁の間で生じ、鉄道駅も当時の街の縁に造られたといえる。

 ウィーンはオーストリアの国土の東のはずれに位置している。そして、第2次大戦後の冷戦時代、ウィーンは鉄のカーテンのすぐ西、ヨーロッパの西側陣営のはずれに位置していたといえる。私がウィーンを最初に訪れたのは、1986年のことであるが、なんとく老成した活気の感じられない印象をもったものである。当時は、ウィーン西駅が、オーストリア西部からの列車、そしてドイツからの列車の終着駅となり、発着本数も多く、周辺にホテルも立ち並び、ウィーンの玄関口という趣があった。ところが、である。2014年、ウィーン南駅がウィーン中央駅に改修され、ウィーン中央駅が主要な列車の発着駅となり、ウィーンの玄関口にとってかわった。オーストリアの西、インスブルックやザルツブルクからの特急列車、ドイツからの国際列車、チェコやハンガリーからの国際列車も、この中央駅の発着となり、さらには、これらの列車の多くが、ウィーン空港まで運行するようになった(参照:Combined Transport)。行きどまりの頭端式ではなく、通過式の駅となり、ウィーンにおける接続がよくなっただけではなく、各地から鉄道による空港へのアクセスが確保されたことになる。こうした通過式の中央駅の設置は、ウィーンだけではなく、ベルリンでなされ、シュツッツガルトでも進められているなど、ヨーロッパ各地でみられる。

 こうした中央駅の設置は、 単に交通ターミナルの集約にとどまらない意味をもつ。まず、新しい駅は、多層階で、さながらショッピングセンターのように多くの店舗が配置される。ウィーン中央駅は、BahnhofCity「駅の街」と称して、2万ヘクタールの売り場面積をもち、約90の小売店舗とレストランを有する。こうした店舗群は、駅を利用する人々だけではなく、ショッピング自体を目的にした顧客を想定している。それは、600台分の駐車場が用意されていることからもみてとれる。ちょうど日本のJR東日本のecuteのようなものであり、駅ナカにおける商業施設の併設は、やはりヨーロッパ各地で行われていることである(参照:ショッピング・ステーション)。

ウィーン中央駅
ウィーン中央駅正面入り口

 
ウィーン中央駅構内

  駅ナカに加えて駅チカ、駅自身だけではなく駅周辺の開発により、オフィス地区や住居地区が配置されている。というのも、頭端式から通過式に駅を改修することで、また、貨物駅を廃止することで、それまで多くの面積を占めていた鉄道用地の他用途への転換が可能になったからである。ウィーン中央駅の場合、駅周辺のベルベデール地区はオフィス街とされた。いくつかの開発区画があり、エルステ・グループ銀行の本社を中心としたErste Campus、STRAUSS & PARTNER開発による、オフィスに加えて、ホテル、住宅、ショップをもつベルヴェデーレ中央地区(QBC)、SIGNA 不動産開発によるThe Icon Viennaもオフィスに加えて、店舗、会議場などを有する。このように中央駅周辺に業務機能もまた集積をみている。

ウィーン中央駅の向こうにオフィス・ビルを望む 

オフィス地区

  さらに、中央駅の南、駅から少し離れたゾンネンヴァンド地区Sonnwendviertelでは、5500戸の住宅、13000人の居住人口、2万人の雇用をもつ職場、商業施設、学校、公園など、ひとつの新しい街が建設されつつある。駅とその周辺に再び、都市の機能を集積させようという試みであるといえる。かつてのウィーンとは違う。ウィーンの街は一方でまた熱い!

 

 

 

2020年5月15日金曜日

ドイツにおける新型コロナ・ウィルス

 今週からオンラインで授業が始まった。ライブであっても録画であっても、ただ喋るだけの授業はしないよう、お達しがあり、音声付きパワポ・ファイル、それと同じ内容のpdfファイルと音声ファイルを用意し、時折リアルなやりとりを交えつつ授業を行う。これが準備になかなかの時間がかかり大変である。ここにきて東京近傍でも全国でも、新型コロナの感染者数が減少してきている。このまま早く収束し、早くに通常通りの授業に戻ってもらいたいものである。

 さて、新型コロナの感染は欧米で著しい。ドイツでは、他のヨーロッパ諸国よりも被害は小さいとはいえ、多くの感染者、死者を出している。そして、ドイツでは、ロベルト・コッホ研究所がこの新型コロナの感染状況の把握や分析を担っている。コッホは、いうまでもなく結核菌などいくつもの細菌を発見し、ノーベル賞を受賞した細菌学者である。このコッホ研究所は、1891年、プロイセンによって彼を招聘して設立された研究所の後継である。現在は、ドイツ連邦健康省の傘下にあり、疾病、とりわけ感染症のサーベランス(監視・調査・情報収集)、評価、予防を担っている(https://www.rki.de/DE/Home/homepage_node.html)。従って、今回の新型コロナについても、このコッホ研が情報を集め評価を行っている。

 コッホ研は、毎日、ドイツにおける感染状況とその評価を「日報」として報告し、かつ、以下のように感染状況を可視化(グラフにしたり地図にしたり)している。

https://experience.arcgis.com/experience/478220a4c454480e823b17327b2bf1d4/page/page_1/

 さらには、 データをcsv形式やshp形式などで提供している。後者のshp形式であれば、GISのソフトで表示が可能であり、以下の図は、実際にこのデータをダウンロードし、地図化してみたものである。

2020年5月14日現在におけるドイツの市郡別10万人当たり感染者数の分布

  この図をみてみると、ドイツ国内で感染状況に大きな地域差があることがわかる。大きく、ドイツの東西(旧東ドイツと旧西ドイツ)で異なり、旧東ドイツで少なく旧西ドイツで多い。そして旧西独においても、南部バイエルン州とバーデン・ビュルッテンベルク州で明らかに値が高くなっている。こうしたドイツにおける感染状況の明瞭な地域差をどのように説明できるだろうか?極めて地理学的な課題である。

 日本における感染状況をみると、東京や大阪などの大都市とその周辺で感染が広がっており、人口が少なく人口密度の低い地方において感染はそうひどくはない。ドイツにおいても同様に、人口が多く人口密度の高い都市部において感染が拡大していると考えられる。実際、ドイツ西部は、都市化が進展し人口密度も高く、ドイツの経済の中核をなしている。一方で、ドイツ東部は一般に人口が希薄であり、おしなべて感染率が低い。東部で感染が多くみられるのは都市部、ベルリンとその周辺、そして、ドレスデンなど大都市が位置するザクセン州である。北部の周辺的なメクレンブルク・フォアポンメルン州では、感染者はあまりみられない。人口密度の高い都市部においては人の流動も多く、人と人との接触機会も多く、感染者を多くだしているのに対して、人口希薄な周辺農村においては、その逆であると想定されるわけである。

  ただ、よく図をみてみると、同じドイツ西部の都市化の進展した地域の中でも、ニーダーザクセン州やヘッセン州など人口当たり感染者数が少ないところもあれば、ドイツ南部バイエルン州やバーデン・ビュルッテンベルク州の中においても、人口密度の低い農村地帯で感染者数の多いところが多々存在していたりする。一概に、人口密度、都市化の程度のみで説明できるわけではないと考えられる。

 それでは他にいったい何で説明することができるのだろうか?ネット上で話題になっているのがBCG仮説である。これは、結核に対するワクチンが、他の細菌・ウィルスにも作用する訓練免疫という機能をもち、新型コロナをかかりにくくし、また、かかったとしても重症化を防いでいるのではないか、という説である(https://www.jsatonotes.com/2020/03/if-i-were-north-americaneuropeanaustral.html)。

 BCGは結核予防のワクチンであり、日本では、はんこ注射とも呼ばれ、現在に至るまで接種が義務となっている。実は、ドイツにおいては、旧東ドイツでは、第2次大戦後、BCG接種が義務化されたが、旧西独では、接種は推奨されていたものの、義務ではなかった。そして、単年度のデータではあるが、旧西独でもニーダーザクセン州ではBCG接種率が高く、バイエルン州やバーデン・ビュルッテンベルク州ではBCG接種率が低かったことが知られる(Kreuser, F. 1964. Tuberkulose-Jahrbuch 1962:94)。新型コロナの感染者数にみられる旧東西ドイツにおける差異、そして旧西独における南北の差異は、BCG接種の差異によって説明できる可能性がある。

 次の図は、ドイツとベルリンの2007年におけるインフルエンザ・ワクチンの接種状況を示している。
2007年のドイツにおけるインフルエンザ・ワクチン接種率
(出典:Riens, B. et.al. 2012. Analyse regionaler Unterschiede der Influenza-Impfraten in der Impfsaison 2007/2008.p.5 https://www.versorgungsatlas.de/fileadmin/ziva_docs/2/Influenza_Bericht_1.pdf)


2007年のドイツにおけるインフルエンザ・ワクチン接種率(出典:同上)

 この図自体、非常に興味深いものである。旧西独ではワクチンの接種率が低く、旧東独では高い。ドイツが統一して17年たった後も、あたかもそこに国境があるかのようである。ベルリンの図をみても、今でもベルリンの壁が厳然として存在しているかのようである。BCGだけではなくワクチン接種が義務化されてきた旧東独の人々は依然としてワクチン接種を積極的な受けいれている。一方で、旧西独では、ワクチン接種を忌避する傾向が強い。旧西独の南部、バイエルン州やバーデン・ビュルッテンベルク州では、さらに、インフルエンザ・ワクチン接種率が低くなっている。このように、ワクチン接種に対する意識、それに基づく接種行動に東西で明瞭な差異があり、この差異は過去におけるBCGなどのワクチン接種の差異を反映していると想定される。実はまた、この後、2009年の新型インフルエンザの流行も旧西独の方が旧東独よりも著しかったことがわかっている(https://www.welt.de/wissenschaft/schweinegrippe/article5311202/Achtjaehrige-an-Herzmuskelentzuendung-gestorben.html)。

 むろんある事象の分布とある事象の分布が類似しているからといって、両者に関係があるとは限らない。ましてや両者に因果関係があるとは軽々にいえない。この旧東西ドイツにおける新型コロナ感染の差異は、ドイツにおいても注目され話題になっているが、先のコッホ研究所の研究者も、BCG接種と新型コロナ感染の関係については、科学的に証明されているわけではないと述べている(https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/bcg-impfung-wie-eine-tuberkulose-impfung-vor-covid-19-schuetzen-koennte-a-e42fa217-bc10-4c1a-890f-dd058177504e)。 とはいえ、その研究は進められている。翻って日本。欧米に比較して圧倒的に感染者数、死亡者数は少ない。それは、マスクや手洗いという衛生に気を配る習慣からだけで説明できるものであろうか。ドイツの例が示すように、義務化されているBCG接種が寄与している可能性はないのだろうか。専門家の方々の解明をまつものである。


 







2019年4月29日月曜日

ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」(2)-2:ドイツのビール

 前回の続きとなるが、2枚目の地図をみていただきたい。これは、2004年から2017年にかけてのビール醸造所の変化を示したものである。凡例の一番上の黄色い丸が、この期間において変化なく存続しているもの、次のオレンジが新しく設立されたもの、最後の青が閉鎖された醸造所を示している。
 この時期における顕著な変化は、ハンブルク、ベルリン、ニュルンベルク、フランクフルト、ライプチッヒといった大都市において中小規模の醸造所ができた一方で、ほぼ全国のどの地域においても、非常に多くの醸造所が閉鎖されたことである。この間に醸造所の全体数は増加しているものの、これは多くの新規参入が、少なくはない閉鎖を上回ったことによる。こうした醸造所の閉鎖は、全ての規模の醸造所にみられるという。
 3枚目の地図は、ドイツにおける10大ビール醸造所の分布を示している。これらの大醸造所は、それまで独立して経営されていた中小の醸造所を傘下に収めることで規模を拡大してきた。図中の四角が、10大ビール醸造所(コンツェルン)の立地を示しており、小さな丸が、傘下のビール醸造所である。これらのコンツェルンは、全国を市場としており、テレビなどでも宣伝がなされて全国的に知られている(私もほとんど知っている)。凡例の下から2番目のCarlsbergカールスバークは、ハンブルクを拠点として、日本にも輸出されスーパーなどでみかけることがある。上から6番目、Paulanerパオラナー・グループは、ミュンヘンに位置し、バイエルンにおけるいくつもの醸造所を傘下とする。パオラナーという銘柄自体、とりわけ小麦のビール、ヴァイツェン・ビールが著名だが、日本にも入っており、飲めるお店もある。これもまたよく知られたレーベンブロイも、このグループの傘下であることが見て取れる。
 私の好きな、ピルスナーらしいピルスナーであるJeverイェーファーは、北部フリースラント地方のJeverで製造されているが、フランクフルトを拠点とするRadebergerラーデベルガーの子会社となっている。このラーデベルガー・グループは、2017年時点で、11億5千万リットルを生産し、世界のビール生産の0.6%を占めて20位に位置する。
 このように、ドイツにおいても世界や日本と同様に、クラフト・ビールを製造する中小の醸造所が増加している。そして、これらは、消費地である大都市を中心に立地する傾向にある。一方で、大醸造所に中小の伝統的な醸造所が飲み込まれ、生産がこれら大醸造所に集中するという方向性もみられる。ここで、ブレーメンにある Anheuser-Busch InBevアンハイザー・ブッシュ・インベブは、世界のビールの3分の1を製造するベルギー資本であり、パオラナー・グループには、オランダのハイネケンが3割の出資をしている。すなわち、ドイツのビール製造は、ローカル化が進展している一方で、グローバル化の波に飲み込まれつつあるともいえる。
 

2019年4月26日金曜日

ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」(2)-1:ドイツのビール

 新学期が始まり、歓迎会、新歓コンパなど飲む機会も多い(新学期だけではなく年中だろう、という声も聞こえてきそうだが、、、)。それにちなんで、ようやくに、ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」の第2弾として、「ドイツのワイン」に続いて「ドイツのビール」をとりあげたい。
 学生時代にドイツにいた頃には、むろん毎日のようにビールを飲んでいた。全国で販売されている言わばナショナル・ブランドのビールもあったが、それぞれの町や地方で生産され、そこでしか販売されないビールも多かった。ビールは、そのビールが生産されたビール工場の煙突の見えるところで飲め、と誰かから言われたものである。それぞれが個性ある味わいをもつ、日本でいえば地酒のようなものであろうか、そして何よりも新鮮さが大事ということであろうか。ドイツから帰国して、友人等に帰国の会を開いてもらって、そこで「これが今、日本で流行っているビールなんだぜ!」と飲まされた某社の某ビールを飲んで、「これがビールか?ビールじゃないだろう!」と驚いたことを鮮明に覚えている。日本でもドイツでも基本的に同じピルスナー・タイプのビールが主であるが、日本では、一気に飲み下すことを前提に、のどごしを重視するのに対して、ドイツでは、ビールを日本酒のように舌の上で味わいながら楽しむのではないか。ビールの飲み方の違いが、ビールの「造り」の違いをもたらしているのかもしれない。
 さて、次の地誌研究所のHPは、ドイツのビール醸造所を取り上げている。
http://aktuell.nationalatlas.de/brauereien-3_04-2019-0-html/
 この1枚目が、2017年におけるドイツのビール醸造所の分布、2枚目が、2004年~2017年における醸造所の変化、3枚目が、ドイツにおけるビール・コンツェルン(10大ビール企業)とその立地、そして、グラフの1枚目が1956年~2018年におけるバイエルン州とその他ドイツの醸造所数の変化(バイエルンだけが別になっているのがなんとも、、、)、グラフの2枚目が、2004年~2018年における規模別ビール醸造所の変化を示している。
 ドイツは世界で最もビール醸造所の分布密度が高い。ここで、ドイツの10大ビール企業が、市場の約3分の2を占めている一方で、クラフトビールの流行も相まって、小規模なビール醸造所も増えている。この傾向はとりわけ大都市において顕著である。ドイツ全体では、約1500の醸造所があるが、その半分以上はいわゆるマイクロ・ブルーワリーである。
 1874年、ドイツ帝国のもとで、ビール醸造所はなんと2万8千カ所あったが、第2次大戦後には、様々なデータがあるが、おそらくは1万強までに減少した。そして、1988年に至っては、1168カ所までとなる。 背景には、工業化の進展や醸造所の吸収合併があり、レストランや農業と兼業で行われていたビール醸造が消失していったという。
 1980年代になって、伝統的な地方のビールを好むという消費性向が現れ、こうした縮小傾向に歯止めがかかる。さらに、2000年代になって、マイクロ・ブルーワリーが流行りだす。伝統的な小規模ビール醸造所が再発見されるだけではなく、北米やイギリスの影響を受けて、新しくマイクロ・ブルーワリーが拡散しはじめた。これらは、小規模で、ビールはホップとモルツ、酵母、水だけしか原料としてはいけないという「ビール純粋法」を無視するものであった。そして、アングロ・アメリカで好まれるような味が求められ、上面発酵のエールやIPAのような強い香りと独特の風味を持ち、アルコール度数が高い。
 2017年において1500あるビール醸造所のうち半分以上が、年間生産量10万リットル以下の小規模醸造所である。これらの市場シェアは、0.3%に過ぎない。一方で、26大ビール醸造所が全体の市場の6割を占めている。
 最初の図「2017年におけるビール醸造所」によると、ドイツにおける南北格差が明瞭である。バイエルン州(657カ所)とバーデン・ビュルテンベルク州(214カ所)でドイツ全体の半分以上を占めている。バイエルン州内では、バンベルク周辺のオーバーフランケン西部で分布が密であり、ここは世界でも突出してその密度が高い。この高密度は、かつて司教から与えられた醸造権という歴史的な特異性に起因するものである。ちなみにこの辺りは、フランケン地方の中でもビール醸造所が集中することから「ビール・フランケン」と呼ばれる一方、この西部、ビュルツブルクを中心とする地方は、ワインの産地であり、「ワイン・フランケン」と呼ばれる。
 ヨーロッパにおけるドイツの位置をみると、EU全体のビール醸造所の半分以上がドイツにあり、次いで、イギリス(667)、オーストリア(168)、ベルギー(115)、デンマーク(105)となる。逆に、1醸造所あたりの生産量は、760万リットルと最低である。

(続く)



 
 

2018年10月2日火曜日

地理屋と鉄ちゃん

 後期が始まる。今年の夏休みは、まずはブラジル・パラナ州にドイツ系移民の調査に入り、その足で(ブラジルから直に飛んで)オーストリア・東チロルにおいて、農村移住者、そしてEUの地域政策によるプロジェクトの調査を行った。久しぶりに一か月ほど日本を留守にしたことになる。帰国後も、学生らと大阪、そして軽井沢へ、学会で和歌山へとでかけ、腰の据わらない日々であった。ここに書けばよいであろう興味深い題材も多く得られた夏でもあった。そのうちに、、、、、といいつつ月日は過ぎる、、、閑話休題。

 地理学科の学生には、いわゆる鉄ちゃん、鉄オタが多い。加えて、地理学者にも、鉄の人が実は存外いる。この夏休み前、某所での地理屋さんによる某飲み会の際のことである。誰かが「ぼくは時刻表を毎月買っている」とさも当然のように宣う。すると脇から「この前、自分へのご褒美に、昔の時刻表を買いましたよ」とさりげなく返す、、、かくいう私もかつては彼らと同類であった(中学生まで)。鉄道雑誌(「鉄道ジャーナル」!)を定期購読して隅から隅まで読み、時刻表からダイヤグラムをおこしてみたり、北陸本線まででかけていって日がな列車を眺めていたり、父とレイアウトを作り鉄道模型を走らせてみたり、したものである。それも昔のこと、、、と、ある時、筋金入りの鉄の地理屋さんに、「ぼくはもう鉄は卒業しましたよ」と言うと、彼が応えるに、「それは卒業と言わない。落第だよ!」そうです、私は落第しました!

 ただ、北陸本線まで5kmほど歩いていって、雷鳥や白鳥など来る列車をドキドキしながら見ていた自分。何に心を動かされていたのか。485系やキハ82系といったハードとしての列車だけではないであろう(キハ82系は美しかった。今でも好きである。)。そうした列車が運んでくるあの山の向こうの世界、これからこの列車が向かうまだ見たこともない世界、それを列車に重ねて見ていたのはないか。未知なる世界へのあこがれ、好奇心が列車へのあこがれに転化していたのであろう。

 学問、あるいは科学。今日、とりわけ日本においては、世の中にそれがいかに役に立つのか、社会的な意義が求められる。しかし本来、それは、これを知りたい、わかりたいという人のもつ純粋な好奇心から行われる行為ではなかろうか。天文学者は、この空の向こうの世界、宇宙に思いをはせる。物理学者は、目の前の物質が一体全体、何でどのように構成されているのか知りたいと思う。翻って、地理学者は、海の向こう、山の向こうにどんな風景が、世界が広がっているのか、どんな人がどんな生活をしているのか、見たい、知りたいのであろう。そうした好奇心が地理学者をして、研究に駆り立てている。
 地理屋さんと鉄ちゃんは、見知らぬ世界へのあこがれ、好奇心をもつという点において同類ともいえよう。かくして地理学科に鉄の人がやってきて、そして、その中から地理屋さんが生まれることになる。地理屋に鉄の人が多いのも必然である。

 


 

 

2017年1月20日金曜日

境界の風景

 4年生の諸君も無事に卒業論文を提出し、後は口述試験をまつだけ。今年度もあとわずかである。学生諸君のブログは順調に更新され、彼らが国内外の様々なところにでかけ、得がたい経験をしていることがみてとれる。頼もしい限り。一方、私のブログは、半年以上、ほったらかしの体たらくである。
 先日、 大寒波が到来する中、安行から見沼にかけてエクスカーションを行った。今学期、M大学とS大学で農村地理学の非常勤をやっており、その講義の一環として実施したものである。とはいえ、M大から1名、S大から1名、ゼミ生1名、計3人、しかもそれぞれ4年生の参加のみであった。昨今の学生さんは忙しい。
 むろん、過去に何度か訪れている地域。だが、変化も著しく、時折訪れることで、新たな発見があって面白い。今回訪れた中でも、埼玉スタジアム周辺の開発が著しい。集合住宅や商業施設の立地に加え、戸建て住宅の建設も進んでいる。
 この埼玉スタジアム、実は旧浦和市の周辺、境界地帯に建設されたことは存外知られていないだろう。はずれだからこそ、開発の余地があったわけである。埼スタのすぐ東に綾瀬川が流れており、この綾瀬川は現さいたま市を構成する旧浦和市と旧岩槻市の境界をなしていた。このあたりでは、綾瀬川を渡る橋は一本しかなく、しかも車のすれ違いもままならない狭い橋しかなかったものである。それぞれの市において道路のネットワークが構築され、それぞれの市の周辺ということもあり、市と市を連結する橋や道路は建設されてこなかったといえる。それが、狭い橋も付け替えられて広くなり、新たな橋も建設され、旧岩槻市側においても宅地開発が進んでいた。合併して一つの市となることで、一体的な開発が行われるようになったわけである。
 しかし、旧岩槻市側の宅地開発の進む地区から綾瀬川に沿って少し北に進むと風景は一変する。水田の中に、鉄板の高い塀で囲まれた廃棄物処理場や資材置き場が点在する。こうした施設が立地するのも、旧岩槻市における周辺的な位置にあったからであろう。かつて、ダイオキシンで大騒ぎとなった通称「くぬぎ山」 もまた、所沢、狭山、三芳のちょうど境界地帯に位置し、産廃施設が多数立地していた。それぞれ、中心から離れた周辺だからこそあらわれる風景である。
 
 

2016年7月16日土曜日

2つの名前を持つ街

 今週末からベルギーのリェージュで開催される学会に参加するため、昨晩、リェージュに入る。国際地理学連合の本大会は4年に一度、地域会議はその間の年に開催されるが、それぞれの分野ごとに委員会があり、独自で会議を企画・開催している。私が参加するのは、Commission of the Sustainability of Rural Systems持続的農村システム委員会の会議で、農村に関心を持つ地理学者が集まってくる。研究発表の会に加えて、開催地周辺の農村を巡るエクスカーションが実施されるのもありがたい。
 今回、成田からヘルシンキ乗換で、ブリュッセル空港に到着した。空港ロビーは、銃を持つ兵士が巡回しているが、カフェでゆったりお茶を飲む人々らからは、平常そのものの雰囲気を感じる。
 ブリュッセル空港の地下に鉄道駅があり、そこからリエージュを目指す。あらかじめベルギー国鉄のサイトで切符を買うこともできたのだが、買い忘れて窓口にて購入する。ウィークエンドは安くなり、リェージュまで18.8ユーロ。もたもたしていて当初乗ろうとした列車に乗れず、時間が空く。再び、到着ロビーに戻り、携帯ショップにてベルギーのsimを購入する。1ヶ月の間、ネットを2.5GB、通話を10分できて15ユーロであり、リーズナブルな価格と言える。早速にsimフリーの携帯に差し込み、ベルギー国鉄の時刻表の確認やグーグル・マップで位置の確認をする。
 空港からリェージュまで直行する列車はなく、ルーバンという駅で乗り換えをしなくてはいけない。ルーバンで降りて、電光掲示板にて乗り換える列車の番線を探す。が、リェージュなる行き先はどこにも表示されていない!とりあえずは、ベルギー国鉄のホームページで記載されていた番線に行き、ホームの係員にたずねて、この番線でよいか確かめ、入線した列車に乗り込む。
 ベルギーは多言語国家、公式の言語境界線が引かれており、北ではオランダ語、南ではフランス語が優先される。ルーバンはオランダ語圏に位置し、地名もまたオランダ語表記をしており、フランス語圏のリェージュLiègeをオランダ語のLuikと表記していたのであった。リェージュLiègeをいくら探しても見つからないわけである。地元の人々には当然かもしれないが、旅行者には不便極まりない。多くの場合、こうした言語境界地帯においては、両言語併記とされるのが一般的であり、一方の言語しか提示されないのは珍しい。ベルギーにおける両言語の複雑な関係を物語っているとも言える。
 地名は、この地表面上のある特定の場所の位置を示すシステムの一つである。そして、この位置を示す地名の体系は、この地表面上のどこに立つか、そしてどの言語を用いるかによって異なる。日本にいて日本語で示す地名の体系と、ドイツにいてドイツ語で表す地名の体系とは違うのである。ヨーロッパの中においても、それぞれの国毎に地名の体系は異なっており、一つの国の中でも、異なる言語ごとに地名は異なることになる。
 ドイツにいたとき、駅に行って列車の行き先の看板をみて戸惑ったものである。Genfゲンフ行き、Mailandマイラント行き、っていったいどこに行くのだろう?前者はジュネーブ、後者はミラノであり、それぞれドイツ語による地名である。Pressburgはどうだった?と聞かれて、はて?と聞き直し、ブラチスラバBlatislavaのドイツ語名と知る。日本の学校教育においては、現地の読みに近いカタカナ表記をすることになっているようだが、カタカタ化し日本語風の発音をすることで、日本、そして日本語独自の地名の体系となるわけである。
 現在、日本の大学では、「グローバル化の推進」とやらで、とりわけ英語の修得を学生に求めている。その際、現地読みで覚えてきた地名を、今一度、英語で覚え直さなくてはならないこととなる。これまでドナウDonau川と習ってきたが、それでは英語圏では通じず、英語ではDanubeダニューブ川である。ドイツのバイエルンBayernは、英語では、ババリアBavariaであり、ミュンヘンMunchenは、ミューニックMunich。英語を学ぶと言うことは、英語による世界像、英語が散りばめられた世界地図を頭に描くことができるようになることでもあろう。